【雑学】インノケンティウス4世

インノケンティウス4世
インノケンティウス4世 (ローマ教皇)
インノケンティウス4世は優れた法学者でもあった。シュタウフェン朝の神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世と対立し、皇帝を討伐する十字軍を招集した。モンゴル帝国に対してプラノ・カルピニを派遣したことでも知られる。

インノケンティウス4世(Innocentius IV, 生没: 1195年頃 – 1254年12月7日)は、13世紀のローマ教皇である(在位: 1243年 – 1254年)。本名はシニバルド・フィエスキ Sinibaldo Fieschi といった。

概要

1245年、第1リヨン公会議を開催、フランシスコ会の修道士プラノ・カルピニを、東方より来襲したタタール(モンゴル帝国)の偵察と再侵入防止工作の為にタタールの居住地方へと派遣した。一方で神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世を破門、テューリンゲン方伯ハインリヒ・ラスペやホラント伯ウィレム2世を対立王に選出した。また、ポルトガル王サンシュ2世を廃位に追い込み、弟のアフォンソ3世に王位を譲らせた。

東欧ではヤロスラヴの戦い以降、ヨーロッパ防衛の橋頭堡だったハールィチ・ヴォルィーニ大公国がモンゴル帝国のジョチ・ウルスの属国になると、第二次ブルガリア帝国を新たなヨーロッパ防衛の橋頭堡とすべく、イヴァン・アセン2世時代に失効したブルガリアとの教会合同をカリマン1世に申し出た。

1246年、ジョチ・ウルスと戦っていたハールィチ・ヴォルィーニ大公ダヌィーロに王位を授けてルーシ王とし、ジョチ・ウルスを牽制したが、同年8月24日のクリルタイでグユクが第3代ハーンになり、カルピニが謁見の際に教皇の親書を手渡して和睦交渉を行なった。この時に教皇宛に送られたグユク・ハーンの勅書が現存しており、グユクは教皇に帰順を求めている。帰国後カルピニは一時、教皇の怒りを買った。

生涯

前半生

生まれについてはラヴァーニャの伯爵ウーゴ・フィエスキとベアトリス・グリヨの間の息子としてシニバルドと名付けられ、ジェノヴァで生まれたというのが有力説であるが、マナローラ生まれであるとする少数意見もある1。フィエスキ家はリグリア地方を代表する高貴な貿易商の一族でした1。シニバルドはパルマ大学とボローニャ大学で学び、その後ボローニャ大学で教会法を教授した2。しかし、アゴスティーノ・パラヴィチーニ・バグリアニによれば、シニバルドのボローニャ大学での教授職を証明する書類は存在しないことが指摘されている3。1214年から1227年まで、彼はパルマの聖堂参事会員だった4。シニバルドは当時の教会法学の権威と見なされており、教皇ホノリウス3世に召し出されて、1226年11月11日から1227年5月30日まで係争文書聴取官5に任命された46。その後、1227年5月31日から同年9月23日までの時期に教皇文書局長官代理7に昇進し、その役職を枢機卿に指名されてからもしばらくの間保持した489

枢機卿として

文書局長官代理シニバルド・フィエスキは1227年9月18日、教皇グレゴリウス9世によりサン・ロレンツォ・イン・ルチーナ教会の司祭枢機卿に列せられた10。1235年10月17日11から1240年まで、アンコーナ辺境伯の代官を勤めました。17世紀頃には彼がアルベンガ Albenga の司教になったという主張がさまざま繰り返されましたが、これには根拠がない。教皇ケレスティヌス4世を1241年10月25日に選挙したが、ケレスティヌス4世の在位期間はわずかに17日で、次いでインノケンティウス4世が教皇に選ばれた。

インノケンティウス4世の即位は教皇インノケンティウス3世・ホノリウス3世・グレゴリウス9世の統治方針を引き継ぐものとなった。神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世とイタリア支配を巡って対立していたグレゴリウス9世は皇帝フリードリヒ2世が占領したイタリアの地域の返還を求めた。皇帝はこれに対し、公会議を招集して教皇を廃位しようとしたが、グレゴリウス9世は機先を制して公会議を招集を宣言した12。しかし、皇帝は教皇の公会議の参加予定者を次々捕らえ、皇帝軍はローマを攻囲しているというのがグレゴリウス9世の死の直前の情勢であった13。そのためケレスティヌス4世のコンクラーベも枢機卿2人が不在のうちに行われ、その2人の解放交渉を皇帝と行っていたために、ケレスティヌス4世の死からインノケンティウス4世の即位までに18ヶ月の空白期間が生じることとなった13

教皇として(皇帝との対決)

1年半にわたる駆け引きと議論ののちに、シニバルドは教皇位に即くことをしぶしぶ了承し、1243年6月25日インノケンティウス4世として即位した。優れた教会法学者であり、かつ教皇庁の行政に長年携わって実務経験もあるインノケンティウス4世は世知に長けており、皇帝フリードリヒ2世もこの教皇となら現実的な妥協が出来、破門も解いてもらえるだろうと考えた13。皇帝と枢機卿時代のインノケンティウス4世は周知の仲14で、皇帝が破門された後も両者には交流があり、皇帝はこの枢機卿を大いに賞賛し、議論を楽しんでいた。フリードリヒ2世はコンクラーベの後、一人の枢機卿との友情は失われ、その喪失は代わりに一人の教皇の敵意を得ることによって補填されるのだと冗談を言いながらも、新教皇へ丁寧な親書を書き、旧知の枢機卿の成功を祝うとともに新しい教皇との和解への期待を率直に述べている。合意案は成立目前にまで迫ったが、教皇のロンバルディア地方返還の要求を拒否し、皇帝がロンバルディア地方の支配にこだわる姿勢を見せたので、インノケンティウス4世は疑念を抱き、両者の関係は険悪となった13

皇帝側の謀略によりイタリアでの反教皇感情は高まり、皇帝の代官は教皇支配を覆そうと陰謀を巡らした。こうした状況の中、インノケンティウス4世はローマを維持することの不可能を悟り、1244年6月7日ひそかにローマを脱出した15。インノケンティウス4世は変装してストリ Sutri とチヴィタヴェッキア Civitavecchia を抜け、7月7日、生まれ故郷であるジェノヴァにたどり着いた。10月5日にはフランスへ逃げ、そこで熱烈な歓迎を受けた。11月29日にはリヨンにたどり着き、都市の行政長官に歓迎された。皇帝の支配権外で身の安全を確保した教皇は12月27日には説教で公会議の開催を宣言し、1245年にリヨン公会議が開催された16。この公会議は6月28日・7月5日・7月17日と3回の会合に分けて行われており、最大の目的は皇帝フリードリヒ2世に異端・偽誓・神聖冒涜などの重大な罪により有罪を言い渡し、その廃位を宣告することだった17

タルムード問題

教皇グレゴリウス9世の時代、1239年6月9日に教皇はフランスの全ての司教に宛てて、ユダヤ人の所有するタルムードを没取するよう命令した。各地の役人は1240年の四旬節の第1土曜日にシナゴーグを一斉捜索し、タルムードを没収してドミニコ会またはフランシスコ会の管理下に保管した18。パリ司教はさらにその命令書のコピーをフランス・イングランド・アラゴン・ナバラ・カスティリャ・レオン・ポルトガルの全ての司教に送付するよう命令された19。1239年6月20日、教皇はタルムードのコピーをことごとく燃やし、妨害者がいれば片っ端から有罪判決とするよう要求する親書をドミニコ会総長・フランシスコ会総長・パリ司教に送り、同じ日にポルトガル王にもタルムードのコピーを押収してドミニコ会やフランシスコ会に引き渡すよう要求する親書を送っている20。これを受けてフランス王ルイ9世は1240年にパリで裁判を開き、タルムードに35の異端の容疑をかけ、最終的に有罪判決を下し、24台の荷車に積まれたタルムードが燃やされた21

即位当初インノケンティウス4世もこのグレゴリウス9世の方針を継承した。1244年5月9日の親書では、タルムードとタルムードに関する注釈が載っているあらゆる書物をパリ大学の指導教授に検閲させ、そこで問題が指摘されればただちに焼却するようルイ9世に要請している22。1247年7月5日インノケンティウス4世は、聖職者と俗人いずれも不法にユダヤ人の所有地を略奪したり、イースターの時期にユダヤ人が幼子の心臓を犠牲に捧げ、食していると偽りを述べており、司教はユダヤ人がこうした理由で攻撃されたり陵辱されたりすることがないよう、ドイツとフランスの司教に親書を出した23。1247年8月6日のフランスのルイ9世に宛てた親書では、以前の方針を改めて、タルムードは焼却されるべきというよりは検閲対象とすべき性質のものであると述べた。この方針転換はパリ大学の前総長でトゥスクルムの司教枢機卿であったシャトールーのオドの反対に遭ったが、それにも拘わらず、インノケンティウス4世の方針は以後の教皇にも引き継がれることとなった24

第1リヨン公会議

ドミニコ会士とフランシスコ会士にモンゴル帝国への親書を託すインノケンティウス4世
送り出されたプラノ・カルピニは無事任務を果たして教皇の親書をモンゴル皇帝グユクに届け、その親書を持ち帰った。

1245年のリヨン公会議の参加者は少なく、それ以前の公会議と比べて最小の規模だった。しかし150人の司教25が参加し、東方からは3人の総大司教とラテン帝国の皇帝も参加した。参加者は短期間で会議に到着し、インノケンティウス4世はその支持を受けることが出来た。フランスやスペイン以外のヨーロッパ地域の司教たちは皇帝フリードリヒ2世からの懲罰を恐れて参加を見合わせた一方、そのほかの地域の司教は中東でのイスラムの侵略や極東からのモンゴル人の侵入によって出席を妨げられた。会議ではセッサのタッデオ Taddeo of Suessa が皇帝フリードリヒ2世の立場を代弁し、フリードリヒ2世の名の下に全ての約束を更新したが、教皇が望んだ保証を与えるのを拒んだ。行き詰まりを打開することは出来ず、タッデオは7月17日、皇帝を破門・追放し、皇帝の臣下に対して皇帝への忠誠義務から解放すると公会議が厳かに宣言するのをおぞましい気持ちで聞かされる羽目になった26

リヨン以後

こうした過激な政治的主張はヨーロッパを激しく動揺させた。この混乱は1250年12月のフリードリヒ2世の死でいったんは収まり、教皇の身辺に迫っていていた脅威を取り除き、イタリアへの帰還を可能にした。1251年4月19日に教皇はリヨンを発ち、5月18日ジェノヴァに姿を現した。7月1日はミラノに到達したが、そのとき教皇は3人の枢機卿とコンスタンティノープル総大司教だけを連れていた。9月中旬まで教皇はミラノに滞在し、それからロンバルディア地方の視察旅行に出発し、ボローニャに向かった。11月5日にはペルージャに到着した。ローマに宮廷を移すのに十分な安全が確認されていなかったので、1251年から1253年までの間教皇はペルージャにとどまった。ペルージャ滞在中の1252年5月15日、インノケンティウス4世は教皇勅書『アド・エクスティルパンダ Ad extirpanda』を出し、それには38の法文が含まれていたが、25番目で異教徒への拷問を許可していた27。1253年10月の第1週に教皇はローマに復帰した。1254年4月27日、アッシジとその後にアナーニに向かうため、教皇はローマを出発した。フリードリヒ2世死後の皇帝位とシチリア王位に関連した相続問題に速やかに着手した。両方の問題について、インノケンティウス4世はグレゴリウス9世の反シュタウフェン的政策を継承し、シュタウフェン家に対する見つかる限りのあらゆる反対意見を支持した。こうした教皇の姿勢は続く30年間にイタリアを新たな対立に導くこととなった。

最晩年

インノケンティウスの最晩年はフリードリヒ2世の庶子マンフレートのシチリア王国支配を打倒に向けられた。しかし、マンフレートはシチリア王国の貴族や都市の幅広い支持を受けていた。インノケンティウス4世はシチリア王国を教皇領に取り込もうと考えていたが、それに必要な政治経済的基盤を持ち合わせていなかった。そのため、教皇はシャルル・ダンジューを引き込もうとしたり、それがフランス王ルイ9世の反対で破談となると、今度は1254年5月14日にイングランド王ヘンリー3世の9歳の息子エドモンドに王国を授封した28。同年、インノケンティウス4世はフリードリヒ2世の別の息子でドイツ王であったコンラート4世を破門したが、コンラート4世はエドマンドへのシチリア王国授封式の数日後に急逝した。コンラートの遺言によりドイツ王の遺児コンラーディンはインノケンティウス4世に預けられたが、マンフレートの反応を見るため教皇はアナーニに移動した29。おそらく時間を稼いでエドモンドに備えるためであったが、マンフレートは教皇に恭順し、南イタリアにおける教皇の代理人という称号を受け容れた。これによってインノケンティウス4世は南イタリアの合法的な最高支配者となり、名目的であれ半島の大部分を統治することとなった。10月23日にはアマルフィの忠誠をシチリア国王を介さずに直接受けることで、ますます自分の立場を過信するようになった。しかしマンフレートは10月26日には本拠を構えていたテアーノを脱出し、自らのサラセン人部隊の待機するルチェーラに向かった30

マンフレートは慎重さを捨てきれず、自ら打って出るのではなく、教皇の侵略に対する防衛態勢を整えた。忠実なサラセン人部隊を使って、反抗的な貴族や都市に対して、甥であるコンラーディンの摂政として自らを認めさせた。マンフレートに教皇の統治を受け容れるつもりがないことを理解して、インノケンティウス4世は教皇軍とともに1254年10月8日、教皇の夏の住まいであったアナーニを出発し、マンフレートの軍と戦うため南へ向かった。

インノケンティウス4世は1254年12月7日ナポリで崩御した。教皇は体調がすぐれないまま、マンフレート討伐のための教皇軍に続いて10月27日にはナポリに入城していたが、12月2日その教皇軍はマンフレートに叩きのめされていた。フォッジャの戦いである。その知らせが教皇の病状を悪化させたというのはありえる話であろう31。教皇の数ヶ月の栄光は挫折へと変わった。

死後

インノケンティウス4世の学説は『教皇令集五巻註解 Apparatus in quinque libros decretalium』によって世に知られている。また教皇勅書『アド・エクスティルパンダ』を出したことも知られており、そのなかで供述を異教徒から引き出すのに拷問を用いた徹底的な調査を行うことを認めていることは大きな影響を伴った。

インノケンティウス4世の教皇即位後すぐに甥であるオピッツォ・フィエスキ Opizzo Fieschi がアンティオキア大司教に叙任されている。1251年12月には別の甥であるオットボノ・フィエスキ Ottobono Fieschi 32が助祭枢機卿に任命されている33。教皇位はアレクサンデル4世に継承された。

ローマ教皇―キリストの代理者・二千年の系譜 (「知の再発見」双書)ローマ教皇―キリストの代理者・二千年の系譜 (「知の再発見」双書)
  • フランチェスコ シオヴァロ (著), ジェラール ベシエール (著), 鈴木 宣明 (監修), Francesco Chiovaro (原著), G´erard Bessi`ere (原著), 後藤 淳一 (翻訳)
  • 創元社 (1999/12/1)

ローマ教皇事典ローマ教皇事典
  • マシュー バンソン (著), Matthew Bunson (原著), 長崎 恵子 (翻訳), 長崎 麻子 (翻訳)
  • 三交社 (2000/08)

「あなたはペトロ。私はこの岩の上に私の教会を建てる」 初代ペトルスから現教皇ヨハネ・パウルス2世までの2000年の事蹟を描きつつ、世界史全体を捉え直す。「ローマ教皇」という一人の人物の立場から見た「西欧史」が本書のテーマである。教会の長という立場からの観測である。当然見える範囲は限られる。しかし、誰が・いつ・どのようにして見たのかが曖昧な一般の歴史教科書に比べて、記述が具体的・「非中立」的であるぶん、生き生きとしている。「キリストの代理者」であるローマ教皇。歴代教皇263人の生涯と事績およびヴァティカン2000年の歴史を、多様な見出し項目で生き生きと読む、敬意と客観性に貫かれたキリスト教文化事典。

王侯たちの支配者(Ruler of princes and kings)

インノケンティウス3世以来の世俗の王たちの上に君臨する「キリストの代理者」という称号と理念をインノケンティウス4世も継承した。インノケンティウス4世はしたがって、世俗の問題に介入することに躊躇しなかった。ポルトガル王国の内紛に介入して聖職者と対立していたサンシュ2世を非難し、アフォンソ3世の王位獲得を支援したり、ボヘミアの王子オタカル(のちのオタカル2世)を保護した。

ヘンリー3世のカンタベリー大司教アビンドンのエドモンド Edmund of Abingdon に対する執拗な攻撃に対しても、インノケンティウス4世は国王を支持した。ヘンリー3世がイングランド内の聖職録の収入を教皇の代官や教皇庁の徴収人、あるいは直接教皇庁に届けられるよりは国王の財源に収められるべきであるという方針であったにも関わらず、である。

モンゴル人の動向もローマ教皇の関心となり、インノケンティウス4世は教皇使節をモンゴル帝国に派遣した。インノケンティウス4世は「キリストの代理者」として、非キリスト教徒に対しても教皇の支配権と、彼らが十戒に背いたときにはそれを罰する権利があることを定めた。この方針は理論面よりは実際面の影響により、数世紀後には結局破棄されることとなる。

キリストの代理人(Vicar of Christ)

帝国の問題と世俗的な王侯の問題への教皇の介入主義は、教会の精神性を損なわせることとなった。教皇領内での課税は増加し、住民の不満は大きくなり、沸騰した。

1253年8月、インノケンティウス4世は清貧の強い主張について熟慮した後、フランシスコ会の第二会であるクララ会を承認した34

1246年、エドモンド・リッチ(アビンドンのエドモンド)を聖人に列した。1250年にはスコットランド王マルカム3世の妻マーガレット・オブ・スコットランドを列聖した。異端アルビ派により暗殺されたドミニカ会士ヴェローナのピーターと、ポーランドのクラクフ大司教であったシュツェパノフのスタニスラウスを1253年に列聖した。

「架空の人格」(persona ficta)概念の創造

インノケンティウス4世はコーポレーション概念の思想につながる法人(Legal personality, persona ficta)概念の形成に影響を与えたと信じられている。インノケンティウス4世は個々の修道士が清貧の誓いを立てているにも拘わらず、托鉢修道会の運営上財産を所有する必要があるという困難な問題を解決するために、「架空の人格 persona ficta」という概念を導入し、修道院は「架空の人格」として一種の法人格を認められることで財産の所有主体として措定され、個々の修道士が所有できない問題を解決し、一方で魂を持たない「架空の人格」は清貧の会則を破ったとは見なされず、破門や犯罪を問われることがないと結論づけた。これは修道会や大学に法人としての働きを与えるきっかけとなった35

国王大権の承認

インノケンティウス4世は「皇帝(および教皇)が公証人を作ることが出来るのみならず、他の国王も公証人を作ることが出来る。というのも、彼らも至高の権力を持っているからである」と宣言しており、皇帝権や教皇権とは自立した国王権力の政治的現実を認めた36

外交政策

ポルトガルとの関係

インノケンティウス4世はサンシュ2世の廃位に関与し、1245年教皇勅書『グランディ・ノン・イメリト Grandi non immerito』を発して、その王政に反対する理由の一つとしてサンシュ2世の未成年での即位を挙げている。

モンゴル帝国との交渉

1245年、インノケンティウス4世は教皇勅書を出してプラノ・カルピニら37に託してモンゴル帝国に使節を派遣した。教皇はモンゴルの支配者にキリスト教徒になってもらい、ヨーロッパに対するモンゴル人の攻撃を食い止めてもらうよう要請した。グユク・ハーンは1246年に書かれた、現在もバチカン図書館に保管されているペルシャ語で書かれた親書で、ローマ教皇を始めとするヨーロッパ諸君主の自らへの恭順を求めた38

1245年には他の使節もモンゴル帝国に派遣されている。ドミニコ会士ロンジュモーのアンドレ André de Longjumeau とフランシスコ会士ポルトガルのローレント Laurent de Portugal である。

ローマ教皇歴代誌

ローマ教皇歴代誌

  • P.G. マックスウェル‐スチュアート (著), 高橋 正男 (監修), P.G. Maxwell‐Stuart (原著), 月森 左知 (翻訳), 菅沼 裕乃 (翻訳)
  • 創元社 (1999/12/1)

中世教皇史

中世教皇史

  • ジェフリー バラクロウ (著), Geoffrey Barraclough (原著), 藤崎 衛 (翻訳)
  • 八坂書房 (2012/3/1)

263人の教項を完全収録。聖ペトロからヨハネス・パウルス2世まで、ローマ教項263人の個性的かつ人間的な素顔を紹介。キリスト教世界のみならず、政治や文化の領域にも多大な影響を与え続けたローマ教皇の存在を通して、2000年の世界史が壮大なひとつの物語となる。歴史の中の教皇―その実像に迫る。教皇権を「本質的には中世ヨーロッパで生まれた」ものと喝破し、西欧中世の実社会の動向の中に、その興隆と衰退の実態を見定め、物語性豊かに描き出した名著。歴史の靄に包まれた「ヴァティカン以前」の教皇と教皇庁の本質を鮮やかに炙りだす。図版多数。
  1. Romeo Pavoni, “L’ascesa dei Fieschi tra Genova e Federico II,” in D. Calcagno (editor), I Fieschi tra Papato e Impero, Atti del convegno (Lavagna, 18 dicembre 1994) (Lavagna 1997), pp. 3-44.[][]
  2. Maurus Fattorini, De claris Archigymnasii Bononiensis professoribus Tomus I pars I (Bologna 1769), pp. 344-348.[]
  3. Agostino Paravicini-Bagliani, “Innocent IV,” in Philippe Levillain (editor), The Papacy: An Encyclopedia Volume 2 (NY 2002), p. 790.[]
  4. Romeo Pavoni, “L’ascesa dei Fieschi tra Genova e Federico II,” in D. Calcagno (editor), I Fieschi tra Papato e Impero, Atti del convegno (Lavagna, 18 dicembre 1994) (Lavagna 1997), p. 6.[][][]
  5. auditor litterarum contradictarum。聴聞官とか聴取官などと訳される。藤崎衛によれば、13世紀にはこの職は一人の人物で担われ、着任者のほとんどがマギステルの称号を帯びていることが確認できるうえ、そのほぼ全員が教皇カペラッヌスすなわち教皇礼拝堂付司祭であったとする(藤崎衛『中世教皇庁の成立と展開』八坂書房, 2013年, pp. 74-75.)。[]
  6. Emmanuele Cerchiari, Capellani papae et Apostolicae Sedis Auditores causarum sacri palatii apostoliciVolumen II (Roma 1920), p. 9.[]
  7. vicecancellarius。Vice Chancellors of the Holy Roman Church。教皇庁(聖庁)尚書院副院長などとも訳される。藤崎衛によると、13世紀の段階では教皇文書局の最高責任者は文書局長官代理であり、1216年以降長官職は置かれておらず、基本的に13世紀は枢機卿が長官代理を兼ねることはなかったという(藤崎衛『中世教皇庁の成立と展開』八坂書房, 2013年, p.68.)。[]
  8. Emmanuele Cerchiari, Capellani papae et Apostolicae Sedis Auditores causarum sacri palatii apostoliciVolumen II (Roma 1920), p. 10.[]
  9. Augustus Potthast, Regesta pontificum Romanorum I (Berlin 1874), no. 8039 (September 23, 1227). He used the title Magister as Vice-Chancellor. A successor appears on December 9, 1227: Potthast, p. 939.[]
  10. Conradus Eubel, Hierarchia catholica medii aevi I editio altera (Monasterii 1913), p. 6.[]
  11. Augustus Potthast, Regesta pontificum Romanorum Volume I (Berlin 1874), no. 10032.[]
  12. P.G.マクスウェル-スチュアート『ローマ教皇歴代誌』月森左知・菅沼裕乃 訳, 創元社, 1999年, pp. 144-145.[]
  13. P.G.マクスウェル-スチュアート『ローマ教皇歴代誌』月森左知・菅沼裕乃 訳, 創元社, 1999年, p. 145.[][][][]
  14. フリードリヒ2世はインノケンティウス4世のことを「帝国の高貴なる息子たちの一人」と呼んでいた。彼の家系フィエスコ家は必ずしも親皇帝派ではなかったが、シニバルド個人はつねにギベリン党に属しポデスタが皇帝によって任命されていたパルマの聖堂参事会員であったことから、パルマの皇帝派人士と交流があった。新教皇の義兄弟ベルナルド・オルランド・ディ・ロッシはフリードリヒ2世の代父であり、当時ギベリン党の指導的立場にある人物と見られていた。フリードリヒ2世から見て、これは皇帝派の人脈に属する人物が教皇に即くという意味を持ち、敵とは見なしていなかった。そしてシニバルドも社交的で愛想の良い、しかし節度も心得た都会的な人物で、どちらかといえば皇帝と仲の良い枢機卿の一人で、党派的利害に左右されるような固陋な人物とは見なされていなかった。(エルンスト・カントローヴィチ『皇帝フリードリヒ2世』小林公 訳, 中央公論新社, 2011年, pp. 617-618.)[]
  15. Augustus Potthast, Regesta pontificum Romanorum II (Berlin 1875), p. 969.[]
  16. Ioannes Dominicus Mansi, Sacrorum Conciliorum nova et amplissima collectio Tomus 23 (Venice 1779), pp. 606-686.[]
  17. P.G.マクスウェル-スチュアート『ローマ教皇歴代誌』月森左知・菅沼裕乃 訳, 創元社, 1999年, pp. 145-146.[]
  18. Augustus Potthast, Regesta pontificum Romanorum I (Berlin 1874), no. 10759.[]
  19. Augustus Potthast, Regesta pontificum Romanorum I (Berlin 1874), no. 10760.[]
  20. Augustus Potthast, Regesta pontificum Romanorum I (Berlin 1874), no. 10767-10768.[]
  21. Isidore Loeb, La controverse sur le Talmud sous saint Louis (Paris: Baer 1881).[]
  22. Augustus Potthast, Regesta pontificum Romanorum I (Berlin 1874), no. 11376.[]
  23. Augustus Potthast, Regesta pontificum Romanorum I (Berlin 1874), no. 12596.[]
  24. Rabbi Yair Hoffman, “The Pope who saved the Talmud”. Robert Chazan, Church, State, and Jew in the Middle Ages (New York : Behrman House 1979), 231-38. J.E. Rembaum, “The Talmud and the Popes: Reflections on the Talmud Trials of the 1240s,” Viator 13 (1982), 203-223.[]
  25. そのほとんどがフランスとスペインの司教だった[]
  26. Ioannes Dominicus Mansi, Sacrorum Conciliorum nova et amplissima collectio Tomus 23 (Venice 1779), pp. 613-619 (17 July 1245).[]
  27. A. Tomassetti (editor), Bullarum, Diplomatum, et Privilegiorum Sanctorum Romanorum Pontificum Taurensis editio Tomus III (Turin 1858), pp. 552-558, no. XXVII.[]
  28. 教皇は当初ヘンリー3世の弟コーンウォール伯リチャードへ王位を打診したが、賢明なリチャードはこれを固持した(エドマンド・キング『中世のイギリス』吉武健司 監訳, 慶應義塾大学出版会, 2006年, p. 166.)。[]
  29. 教皇は1254年の春をアッシジで過ごしている(Augustus Potthast, Regesta pontificum Romanorum II (Berlin 1875), p. 1268.)。[]
  30. Bartholomaeus Capasso, Historia diplomatica Regni Siciliae inde ab anno 1250 ad annum 1266 (Neapoli 1874), p. 82.[]
  31. P.G.マクスウェル-スチュアート『ローマ教皇歴代誌』月森左知・菅沼裕乃 訳, 創元社, 1999年, p. 146.[]
  32. のちの教皇ハドリアヌス5世。[]
  33. Eubel, Conradus (ed.) (1913). Hierarchia catholica, Tomus 1 (second ed.). Münster: Libreria Regensbergiana.. (in Latin) p.7 and p.48.[]
  34. クララはアッシジのフランチェスコに従い、自らを「フランチェスコの小さな苗木」と自称した。彼女は女性で初めて修道会の会則を書き、その承認を強硬に求めたが、インノケンティウス4世がそれを認可したのは彼女の臨終のまさに前日1253年8月10日であった。[]
  35. John Dewey, “The Historic Background of Corporate Legal Personality,” Yale Law Journal, Vol. XXXV, April 1926, pages 655-673.[]
  36. 南充彦 『中世君主制から近代国家理性へ』 , 南窓社, 2007年, p. 107.[]
  37. フランシスコ会士のポーランドのベネディクトも同行していた。[]
  38. David Wilkinson, Studying the History of Intercivilizational Dialogues.[]

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