【雑学】ファイト・ルートヴィヒ・フォン・ゼッケンドルフ

ファイト・ルートヴィヒ・フォン・ゼッケンドルフ
ファイト・ルートヴィヒ・フォン・ゼッケンドルフ
ヨハン・ヨアヒム・ベッヒャーとともに官房学の先駆者に数えられる。
ファイト・ルートヴィヒ・フォン・ゼッケンドルフ(1626年12月20日 – 1692年12月18日)は17世紀ドイツの政治家、政治学者。前期官房学を代表する学者で、主著は『ドイツ君主国 Teutscher Fürstenstaat』(1656年)。

概要

ゼッケンドルフは前期官房学を代表する論者で、必ずしも広く思想的影響を及ぼした人物ではなく、独創性や創造性にも乏しかったが、テューリンゲン地方の一小領邦の現実政治に基づいて書かれた主著『ドイツ君主国』は当時のドイツにおける小国の政治的伝統を理解するのには欠かせない資料となっている。そこではドイツの小国の政治状況から、ポリツァイの現実と理想的統治のあり方が論じられた。彼の主張は政治面だけでなく教育面でのポリツァイの主張があるが、彼が仕えたザクセン=ゴータ候国は世界で最初に義務教育制度を整えたことでも知られている1

生涯

前半生(廷臣としての成功)

ゼッケンドルフ家の紋章
ゼッケンドルフ家の紋章
『ズィープマッハー紋章図鑑 (Siebmachers Wappenbuch) 』より。
1626年12月20日、ゼッケンドルフは中部フランケン地方のルター派貴族の家系2に生まれた。生誕地は中部フランケン地方の小都市ヘルツォーゲン・アウラハ Herzogen-Aurachである。彼の父ヨアヒム・ルートヴィヒ Joachim Ludwig はヘルツォーゲン・アウラハの地方長官でバンベルク司教の主馬頭 Stallmeister であったが、三十年戦争ではグスタフ・アドルフのスウェーデン軍に加わり、1642年2月皇帝派と内通した罪で軍法会議により処刑された。ファイト・ルートヴィヒは父の三十年戦争時の上官であったヴェッティン・エルネスト家のザクセン大公エルンスト敬虔公に引き立てられ、1639年13歳で小姓としてこの君主に仕えることとなった。エルンスト敬虔公はファイト・ルートヴィヒをコーブルクのギムナジウムに、次いでゴータのギムナジウムで学ばせた。その後陸軍大将モルテーンの保護を受けて、シュトラスブルク大学に入学し、3年間をそこで過ごした。同大学には新ストア主義の代表的思想家リプシウスをドイツに広めたマティアス・ベルネッガー Matthias Bernegger (1582 – 1640)の弟子ヨハン・ハインリヒ・ベークラー Johann Heinrich Bökler (1611 – 1672)がおり、リプシウスとグロティウス、そしてタキトゥス研究に秀でた古典文献学者であったこの師の影響を受けたと思われる。大学卒業後もファイト・ルードヴィヒはこの師と交流を続けている。 大学卒業後、ファイト・ルートヴィヒはヘッセンダルムシュタット方伯ゲオルク2世の親衛隊に呼ばれたが、モルテーンはファイト・ルートヴィヒにそれを断るよう薦め、1646年ファイト・ルートヴィヒはダルムシュタット宮廷を去り、結局エルンスト敬虔公によって参議官 Rathe として雇われた。敬虔公はファイト・ルートヴィヒを仕事から自由にさせておき、学問に専念させ、毎日曜日にエルンスト敬虔公に講義をし、諮問に答える役割を与えた。この間ファイト・ルートヴィヒは午前中は共通法の勉強を、午後は系図学・歴史学・地理学・神学・哲学・数学を学んだ。とくに彼に影響を与えたのは宮廷説教師クリストフ・ブロンホルスト Christoph Bronchorst (1604 – 1664)と総監督ザロモン・グラス Salomon Glaß (1593 – 1656)で、この両者を「精神の父」と呼んでいる。 ザクセン=ゴータ候国は人口45,000人ほどの小国であったが、それゆえに内政は行き届いており、当時としては稀な教育・福祉国家を実現していた。教育の政策立案を担当していたのはファイト・ルートヴィヒも学んだゴータのギムナジウム校長アンドレアス・ライアー Andreas Reyer (1601 – 1673)であった。ライアーは17世紀最大の教育学者コメニウスの実践的教育理念に基づいて国民学校(義務教育初等学校)とギムナジウム(高等学校)についての先進的な学校制度を作り上げた。ファイト・ルートヴィヒはその著作に学校教育と官吏養成および君主の子弟教育について様々な提言を盛り込んでいるが、これはライアーのモデルを参照していると考えられている。 1647年、エルンスト敬虔公はファイト・ルートヴィヒをスウェーデンとの外交交渉に当たらせ、1648年には侍従 Cammerherr に任じた。1651年弱冠25歳にして司法参議 Rathscollegium という重職を任されたが、これは君主の寵愛ではなく正規の試験を受けた結果で、このときすでにフランス語・イタリア語・スペイン語・デンマーク語・スウェーデン語に通じていたという。1655年にはエルンスト敬虔公から御領地の監督を任され、1657年には宮廷裁判官を務めた。1663年には宗務局長官・財務局長官・尚書長官および枢密参事会議長の官職を帯び、37歳にして位人臣を極めた。 ゼッケンドルフの最初の著作『ドイツ君主国』はすでに1656年に著され、ほかに神学・教会史関係の著作やギムナジウムの生徒用の詩作などが行われている。ラテン語教科書や教育に関する意見書も提出している。これら同時期の一連の著述活動を見れば、『ドイツ君主国』執筆の意図も、容易に推察できる。『ドイツ君主国』は行政官のゼッケンドルフが実践的意図を持って著述した作品であった。

後半生(学究生活)

モイゼルヴィッツ城
モイゼルヴィッツ城
1677年に建てられた。その後ゼッケンドルフの相続人となったフリードリヒ・ハインリヒ・フォン・ゼッケンドルフによって1724年から1727年の間に改修された。
1664年8月にゼッケンドルフは一切の職を離れて、宮廷を辞した。エルンスト敬虔公との不和を推察する向き3もあるが、主たる理由は多忙すぎるというものだった。1665年ザクセン=ナウムブルク=ファイツ大公モーリッツの招聘を受けて、カンツラー Canzler と宗務庁長官 Consistorialpräsident を務めた。ゴータ候国に比べるとこの公国は規模が小さく、ザクセン選帝侯国の上級支配を受けていたので、仕事は以前に比べて楽であったかもしれない4。モーリッツにパスカルの『パンセ』を講じたことがきっかけで『ドイツ君主国』と並ぶ代表作『キリスト教徒国 Der Christenstaat』が著された。1676年ゼッケンドルフはモイゼルヴィッツに騎士領を購入した。 1681年モーリッツが亡くなるとツァイツの宮廷を辞して、以後モイゼルヴィッツで学究生活を営んだ。モイゼルヴィッツ時代のゼッケンドルフについて知られていることといえば、教会の修復のためにエルンスト敬虔公の長子フリードリヒに森林の伐採と運搬の許可をとりなしたほか、領内外から寄付を集めて自らも1000グルデンの寄付をおこなったこと、年市の再開と週市の開催許可を得るために尽力したこと、騎士領の拡大と充実を図って一族の家族世襲財産としたことくらいである5。1685年に『キリスト教徒国』、1692年『ルター主義あるいは宗教改革に関する歴史および弁護の書 Commentarius Historicus et apologeticus de Lutheranismo sive de Reformatione』が出版された。後者は実証主義的な教会史として後世の宗教改革研究を規定するもので、今日なおルターによる『95ヶ条の論題』を宗教改革の始まりとする一般通念に影響を与えている。ゼッケンドルフ自身は「宗教改革」という用語をルター主義のみを対象として狭く用いていた6。神聖ローマ帝国の歴史・地理にも関心を寄せ、『ローマ・ゲルマン人の公法 Ius publicum Romano-Germanicum』を著している。またドイツ語普及のための「結実協会 Fruchtbringende Gesellschaft」に参加していたが、1686年には『ドイツ語演説集 Teutsche Reden』というものを公刊し、ローマの詩人ルカヌスの叙事詩『ファルサリア』をドイツ語に翻訳して注釈を加えている(『ルカヌスの三〇〇の教訓的格言と歴史叙事詩ファルサリアについての政治・道徳的学説 Politische und Moralische Discurse』)。 しかし学級生活の中でもゼッケンドルフの実践への意欲は抑えきれないものがあった。1691年、ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世の招請を受けて、その枢密参議となり、翌1692年にはトマジウスが学長を務める新設のハレ大学の事務局長に任命された。ここではルターは正統主義と敬虔主義の間の紛争の調停を任された。同年12月18日午前7時、ゼッケンドルフはハレで亡くなった。死因は持病の結石であった。

『ドイツ君主国』

ゼッケンドルフの代表的著作は1656年に上梓された『ドイツ君主国』である。この著作は官房学の代表的著作として知られる。ゼッケンドルフ自身も時の王侯の求めに応じて「ポリツァイ」の著作の不足を補うために書かれた。この著作の主意はポリツァイの状況と理想的統治のあり方を論じるところにあり、一般的な政策や規則を叙述することにあるのではない。この著作は領邦統治の改革案ないし改革論といったものであった。主題はザクセン=ゴータ候国のような小国が、帝国分裂という事態に際してよりよい結果を生む政策体系について論じることにあり、上は帝国権力、下は領邦諸身分との関係に規定されるという当時のドイツの領邦国家の現実を踏まえて、そのような領邦がどのようにすれば独立して存続していけるかを論じた。 これに当たってゼッケンドルフは書名に「国家 Staat」という語彙を用いたのであるが、これをゼッケンドルフは今日的な客観的組織としての国家ではなく、どちらかといえばその原語たるstatusに近い、状態とか身分の意味で用いている。ゼッケンドルフはわざわざこの国家という語が当時流行した「国家理性」を意味したり、それによって国家の道徳性を汚すようなことを正当化するような当時の風潮に与するものではないと述べ、本文中でもまれにしか使っていない7。彼にとっての国家とは統治ないし行政、あるいは政治秩序といった意味であった。 ゼッケンドルフの定義によれば、君主の統治とは、領邦の等族と臣民に対し、領土とその付属物に対して行使される、領邦内においては君主以外の誰にも帰属しない領邦の最高権力である8。またその権力の根拠は、実定法的に見て、神聖ローマ皇帝の授封と誓約式における臣民の領邦君主に対する臣従の誓いに存する8。しかし、この二つの根拠だけでは領邦のあらゆる場所・すべての人に対する君主の一般的な支配権は導き出せないとゼッケンドルフは言う8。領邦主権は実際には慣習的に、あるいは歴史的に構成されてきたもので、実態は多様であり、様々に例外的な特権を許す不均質な構成体であって、場合によって領邦主権に服さない人や土地が存在していて完結性に欠けていた。彼はこうした歴史的産物である領邦支配権を体系的に考察するために、領邦の地誌や統計の重要性、古文書と歴史によって支配権の起源を明らかにすることの必要性を説く。ここではゼッケンドルフは領邦統治をまるで領邦君主の家産業務のように描き出している。 続いて展開されるゼッケンドルフの国制論と統治論はきわめて強い宗教性と徹底した目的合理性を特色とするが、彼によれば国家の統治の目的は宗教的並びに世俗的な事柄における共同の利益と富裕との維持および擁護に存するとされ、その究極目的は神の栄光に求められており、領邦主権はその究極の根拠を神の恩寵にあると説かれ、王権神授権説類似の学説が展開されている。そこでは権力の保持よりはむしろ行使の制限のほうに主眼があるかのように議論が展開されている9。ゼッケンドルフは中世的な伝統的身分秩序の回復・維持を目的としながら、政策においては君主に教育・福祉の行き届いた配慮を求めており、古めかしい表現の裏側に近代的な福祉国家行政の精神を見ることが出来る10。こうした福祉政策を維持するために領邦君主に財政規律を求めていること、表現としてはキリスト教倫理観に多分に彩られながらも公共の福祉のために権力を制限する議論を展開していることは立憲主義に近いものであることなど興味深い特徴がある。 こうしたゼッケンドルフの主張は経済政策としては一般に重商主義の系譜に属すると見なされるが、マルヘット Gustav Marchet のようにこれを福祉国家的な行政論として重商主義との関連性を疑問視する意見もある。

参考文献

  • 千葉徳夫「ファイト・ルートヴィヒ・フォン・ゼッケンドルフ」, 勝田有恒・山内進 編『近世・近代ヨーロッパの法学者たち -グラーティアヌスからカール・シュミットまで-』ミネルヴァ書房, 2008年。
  • ゲルハルト・エストライヒ『近代国家の覚醒 -新ストア主義・身分制・ポリツァイ-』阪口修平・千葉徳夫・山内進 訳, 創文社, 1993年。
  • F.ハルトゥング ほか『伝統社会と近代国家』成瀬治 編訳, 岩波書店, 1982年。
近代国家の覚醒―新ストア主義・身分制・ポリツァイ 近代国家の覚醒―新ストア主義・身分制・ポリツァイ
  • ゲルハルト エストライヒ  (著), Gerhard Oestreich (原著)
  • 創文社 (1993/11)
近世・近代ヨーロッパの法学者たち―グラーティアヌスからカール・シュミットまで 近世・近代ヨーロッパの法学者たち―グラーティアヌスからカール・シュミットまで
  • 勝田 有恒 (著), 山内 進 (著)
  • ミネルヴァ書房 (2008/02)
20世紀末の今日、国家は弱体化し、宗教的情念の絡んだ民族紛争がいたるところで勃発している。本書は、16世紀ヨーロッパで生まれた新ストア主義を通して、近代国家の意味を改めて考えるための最良の入門書である。 偉大な法学者の人生と思想を克明に描き出す。本書は、法の歴史的展開に足跡を遺した法学者たちの生涯を鮮やかに甦らせ、その法理論を最新の研究に即して叙述することで、西洋法制史の基本的理解を深める画期的な書。
  1. 川又祐「官房学研究とゼッケンドルフ」『経済学史学会年報』 Vol. 42 (2002)  pp.84-94, p. 87.[]
  2. 家名はランゲンツェン Langenzenn とニュルンベルクの間にある村ゼッケンドルフに由来する。1042年、ベルンハルト・フォン・ゼッケンドルフという人物がハレで開催された馬上槍試合に参加していることが知られ、1154年の文書にはハインリヒ・フォン・ゼッケンドルフという名前が証人として記載されている。13世紀になるとゼッケンドルフ家は11もの家系に分かれたが、そのうちグーテント Gutend ・ヘールフ Höruf ・アバダー Aberdar は今日まで存続している。ファイト・ルートヴィヒ・フォン・ゼッケンドルフの家系はこのうちグーテント系に属し、1543年ルター派信仰を受け入れた。またアバダー系のハンス・フォン・ゼッケンドルフはホーエンツォレルン家のブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯に筆頭家臣として随行し、アウグスブルク信仰告白に立ち会っている。いずれの家系も世俗諸侯や教会諸侯の宮廷で活躍し、やがて官僚や軍人として帝国に勤務することとなった。ファイト・ルートヴィヒ・フォン・ゼッケンドルフの甥で相続人でもあったフリードリヒ・ハインリヒ・フォン・ゼッケンドルフ(1673 – 1763)は18世紀ドイツを代表する政治家・軍人の一人であった。(千葉徳夫「絶対主義時代のドイツにおける小国の理念 -ゼッケンドルフの政治的著作を中心として-」『法律論叢』vol. 64 (1992) pp. 73-143, pp. 77-78.)[]
  3. 千葉徳夫「絶対主義時代のドイツにおける小国の理念 -ゼッケンドルフの政治的著作を中心として-」『法律論叢』vol. 64 (1992) pp. 73-143, p. 85.[]
  4. 千葉徳夫「絶対主義時代のドイツにおける小国の理念 -ゼッケンドルフの政治的著作を中心として-」『法律論叢』vol. 64 (1992) pp. 73-143, p. 86.[]
  5. 千葉徳夫「絶対主義時代のドイツにおける小国の理念 -ゼッケンドルフの政治的著作を中心として-」『法律論叢』vol. 64 (1992) pp. 73-143, p. 87.[]
  6. R.W.スクリブナー, C.スコット・ディクスン『ドイツ宗教改革』森田安一 訳, 岩波書店, pp. 3-4.[]
  7. 千葉徳夫「絶対主義時代のドイツにおける小国の理念 -ゼッケンドルフの政治的著作を中心として-」『法律論叢』vol. 64 (1992) pp. 73-143, p. 95.[]
  8. 千葉徳夫「絶対主義時代のドイツにおける小国の理念 -ゼッケンドルフの政治的著作を中心として-」『法律論叢』vol. 64 (1992) pp. 73-143, p. 96.[][][]
  9. 千葉徳夫「絶対主義時代のドイツにおける小国の理念 -ゼッケンドルフの政治的著作を中心として-」『法律論叢』vol. 64 (1992) pp. 73-143, p. 98.[]
  10. 千葉徳夫「絶対主義時代のドイツにおける小国の理念 -ゼッケンドルフの政治的著作を中心として-」『法律論叢』vol. 64 (1992) pp. 73-143, p. 103.[]

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

error: Content is protected !!